心に積もるもの


 閉心術とは、外からの侵入に対して心を防衛する魔法のことだ。原作には『世に知られていない分野の魔法』と記載されていたため世間的にはマイナーな魔法なのだろうが、これから先この世界を生きていく私にとってはとても重要な防衛術になるに違いない。そう思って、あの時半ば無理やりスネイプ先生に個人レッスンをお願いしたんだけど……。

「レジリメンス!」
「っ!!」

 スネイプ先生のレッスンには容赦がなかった。開始時間からそろそろ一時間が経とうとしてるけど、休まることなく開心術で心の中を覗かれた私の精神はもうボロボロだ。

 5歳、鼻の穴に入れたビーズが取れなくなり大泣き――11歳、自転車で用水路に突っ込み大泣き――16歳、フランダースの犬を見て大泣き――なぜか泣いている記憶ばかりが心をよぎる。

「この程度にも抵抗出来んとは……」

 9回目のレジリメンスを受けたあと、何の進歩も見せない私にスネイプ先生は呆れたような声を出した。閉心術はハリーも習得するのに手間取っていたから覚悟はしていたが、まさかここまで難航するなんて……。

「やる気はあるのかね?」
「あ、あります! やる気だけは十分にあります!」

 じゃなきゃ、自分の恥ずかしい過去をさらけ出してまでレッスンを受けようなんて思わない。けれど、やる気と技術は時として伴わないことだってあるのだ。どれだけ心を空にして感情を無にしようとも、懐かしい思い出がよぎるたびに私の喜怒哀楽は揺すぶられてしまう。

「ならばそれを証明してみたまえ。感情を制御し、我輩の侵入を阻止するのだ」

 厳しい口調で言いながら、スネイプ先生は私に杖を向けた。

「構えろ。いくぞ――レジリメンス!」

 再び、過去の体験が映画のワンシーンのように流れ始める。
 汽車の中で出会ったセドリック・ディゴリー――危ない未来は避けてくれとお願いするウィーズリーおばさん――フローリシュ・アンド・ブロッツ書店で私と握手を交わすルシウスさん――あまりにも鮮明な光景だから、これが『記憶』であるということを忘れてウィーズリーおばさんのお願いに心がまた痛んだけど、感傷に浸っている場合ではない。こういう時こそ心を空っぽにするんだ……。しかし、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、私の心はかき乱されていった。

 そう言えば、ハリーはどうやって閉心術を習得したんだっけ。結局スネイプ先生とのレッスンは駄目になってしまったし、確か7巻で身につけた気が……。

 そうやって、何か手掛かりがないかと記憶を辿ったのが間違いだった。突如場面が変わったかと思うと頭の中にはハリー・ポッターの本が現れ、最終巻である死の秘宝を胸を高鳴らせながら読んでいる景色が映し出された。

 ――駄目だ、この記憶だけは見せてはいけない。

 心臓がドキドキと脈打ち始める。早くどうにかしなければ。このまま侵入を許し続ければ、ここが本の中の世界だってバレてしまう。誰がどうやって死んでいくのかも知られてしまう。死の秘宝では、目の前にいるスネイプ先生だって――

「っ、やめて!!」

 たまらず叫ぶと記憶の景色は頭から吹き飛び、再びスネイプ先生の研究室が見えてきた。無意識のうちに何か呪文を唱えてしまっていたのか、杖先からはパチパチとオレンジ色の火花が飛び散っている。顔を上げると、スネイプ先生が険しい顔を浮かべながら右手の甲を摩っている姿が見えた。

「す、すみません……私……」
「構わん」

 私の予想に反して、スネイプ先生の返事はとてもあっさりしていた。普段なら嫌味の一つでも飛んできそうなのに、考え込む素振りを見せるだけでそれ以上は何も言ってこない。

「スネイプ先生……?」

 もしかして、あの記憶はスネイプ先生に伝わってしまったのだろうか。日本語で書いてあったから内容までは読み取れていないと思うけど、正直安心はできない。閉心術ですべてが筒抜けだったのなら、文字を読まずとも感情を読むことで情報を把握することは可能なのだから。

「今日はここまでとする」
「え、でもまだ……」
「これ以上続けても進歩は望めんだろう。我輩に教えを乞うなら、もう少し有意義な時間にして頂きたいものだ――まずは毎晩寝る前に心を落ち着かせ、感情を取り去る訓練をすることを勧める」
「ううっ……」
 
 分かっていたことだけど、ハッキリ言われるとやはり傷つく。無意識とは言え最後は抵抗出来たのだから自分としてはなかなかうまくいった方だと思うんだけど、どうやらスネイプ先生を満足させられる結果ではなかったらしい。

「手紙に書いた通り、レッスンは毎週日曜日に行う。同じ時間にここに来るのだ。分かったな?」

 そう言うと、スネイプ先生は杖を下ろして私に背中を向けた。きっと、無理を言ってお願いしても、これ以上レッスンが続けられることはないだろう。来週はもう少し手応えを見せられたらいいな。せっかく時間を割いてレッスンをしてくれてるんだから、これ以上先生を失望させたくない。

 そう思いながら杖をローブにしまい扉を開けると、私は研究室をあとにした。本当はあの記憶についてどこまで知ってしまったのかも聞きたかったけど、そこまで踏み込む勇気はない。だって、もしすべてを知ってしまったとしたら、どんな顔をしてスネイプ先生の前に立てばいいのか分からなくなる。気まずい思いをするくらいなら、知らないふりをしてくれた方がずっとマシだった。

 大広間を抜けて地下に降り、合言葉を告げて壁に隠されていた扉をくぐり談話室に戻ると、クィディッチのメンバーが中央に集まって何やら作戦会議をしているのが見えた。最先端の箒を受け取ったことで士気が大きく上がっているらしく、あの朝の一件以来、彼らは時間さえあればああやって熱く語り合っているのだ。と言っても、その大半はドラコへのよいしょである。

「ドラコ、お前がいればスリザリンの優勝は間違いなしだ」
「ニンバス2001とドラコがいれば、スリザリン・チームは最強だからな」

 あからさまなご機嫌取りだけど、ドラコ本人は満更でもない様子だ。
 よく見ると、彼のそばにいるのはクィディッチ・メンバーだけではなかった。普段は談話室の隅にいてドラコと関わろうとしない数名のスリザリン生すらも、今や取り巻きと化している。ニンバス2001を貰ったクィディッチ・メンバーのように、自分達も何か利を得ようとしているのだろうか。

 だとしたら、あまりに虫が良すぎる話だ。そんなにマルフォイ家の恩恵を受けたいなら、せめてクラッブやゴイルのようにいつも一緒にいればいいのに……調子良くお近付きになろうとするなんて、何だかちょっとモヤモヤする。それに、ドラコもドラコだ。あんなに分かりやすい態度なのに、どうしてそれを受け入れてるんだろう。

 ニヤニヤと作り笑いを浮かべている連中も、その中心に座って威張っているドラコも、これ以上見たくなくて、私は足早に寝室へと向かった。

「何よ、あれ! 何なのよ、もう!」

 まだ20時にもならない時間だと言うのに、寝室には既に先客がいた。パーキンソンとグリーングラスである。パーキンソンは自分のベッドに座り込み、怒りをぶつけるかのようにクッションをバシバシ叩いている。グリーングラスは、そのクッションから出てきた羽毛をふわふわ浮かせながらパーキンソンの話を聞いている様子だった。

「あいつら普段はドラコのことを鼻で笑ってるくせに、こんな時だけ擦り寄ってくるなんて……思い出しただけで腹が立つ!」

 パーキンソンの投げたクッションが、私の顔の横を通過し、壁にぶつかる。もう少しズレてたら顔に当たるところだったけど、二人はそんなこと全く気にしていない様子だった。

「そもそもニンバス2001は個人への贈り物じゃなくて『クィディッチ・チーム』に贈られたものなのに、どうして選手でもない自分達が何か貰えると思ってるの!?」
「パンジー、落ち着いて。あんまり暴れるとベッドが壊れちゃうわ」
「ダフネはどうしてそんなに冷静でいられるのよ!」
「だって、ドラコはちゃんと気付いてると思うの。彼らの下心に」
「そっ、それはそうだけど……、っ、そうだけど……!! 」

 分かっていても怒りはおさまらないのか、パーキンソンはもう一つ近くにあったクッションを手に取ると乱暴に振り回し始めた。

「ああもうっ、あいつらが邪魔でドラコのそばにも行けないし……シーカー就任のプレゼントを渡したかったのに……!」

 人に向かってクッションを投げるという行為は褒められたものじゃないけれど、彼女が怒っている理由は素直に可愛いと思った。

 パンジー・パーキンソンは取り巻きの子達とは違う。ドラコの機嫌を取るようなことはあっても、それはあくまでドラコ自身に良く思われたいという結果であって、マルフォイ家に対する下心なんてない。彼女は、ドラコのことが大好きな普通の女の子なのだ。
 それなのに。そんな女の子だって周りにいるのに。ドラコはどうしてあんな風に取り巻きに囲まれることを望むんだろう。

 ――駄目だ。考えたら余計にモヤモヤしてきた。

 本当なら、閉心術のレッスンの為に心を落ち着かせなきゃいけないのに……。消化できない気持ちのせいで、スネイプ先生に言われた『寝る前に心を落ち着かせ、感情を取り去る訓練』はうまくいってくれなかった。

 
 ***
 

 閉心術のレッスンではこれと言った成果が出ないまま、月は変わって10月を迎えた。私が別の世界から来たことも、ここが本の中の世界だということも、スネイプ先生には絶対知られていると思うけど、レッスン中その件について触れられることは一切なかった。おかげで気まずい思いをしなくてすむから、とてもありがたい。

 校内では教師や生徒の間で風邪が流行り出し、医務室に駆け込む人が多くなった。そこでもらえる校医特製の元気爆発薬はすぐに効き目を発揮したが、それを飲むと数時間は耳から煙を出し続けることになるため、女の子なんかは恥ずかしがって寝室に引きこもる子もいた。ルームメイトのハリエット・エイブリーもそのうちの一人である。その日寝る前にちらりと彼女の姿を見たけど、艶のあるダークブラウンの髪の下からもくもくと上がる煙は、確かに年頃の女の子には厳しい副作用だった。

 10月になって酷くなったのは風邪だけではない。天候も、嵐が来たのではないかというくらい凄まじいものになっていた。強風に吹かれた雨粒はお城の窓を打ち続け、湖も水かさを増し暴れていた。スリザリンの談話室からはいつも穏やかな水中が見えていたけど、大雨のせいで荒れ狂っていて巨大イカもご機嫌斜めのようだった。

 しかしこんな悪天候の中でさえクィディッチの練習は行われているらしく、ここ最近は泥に塗れてずぶ濡れになったスリザリン・チームをよく見掛けるようになっていた。いつも身綺麗にしているドラコの髪や顔に泥がついていた時はぎょっとしたけど、それだけみんな頑張っているんだって思うと胸が熱く――ならないな、うん。あの時のフリント達の態度を思い出したら冷めてきた。やっぱり無理に大人ぶらず、ナメクジの一発や二発食らわせておけばよかった。

「ねぇドラコ。明日の練習、私も見に行っていいかしら?」

 頭の中で呪いを掛けるシミュレーションをしながらローストビーフをお皿にのせていると、パーキンソンの弾むような声が聞こえてきた。あんなに上機嫌な彼女は久しぶりに見た気がする。ドラコの取り巻きが増えてからはイライラしていることが多かったけど、プレゼントは無事に渡せたのだろうか。

「邪魔にならないよう大人しく見てるから。ね、いいでしょ?」
「そうだな……スタンドからならフリントも文句は言わないだろう」
「やった! それじゃ、明日は朝イチでドラコの応援に行くわね!」

 嬉しそうに笑みを浮かべるパーキンソンの頬は、この距離からでも分かるくらい真っ赤に染まっていた。好きな人の部活を見に行くってこんな感じなんだろうなぁ……何だか、青春を謳歌しているようで羨ましい。

 無理に好きな人を作るつもりはない。青春=恋愛って考えているわけでもない。けれど、ああいう姿を見ていると私も恋で一喜一憂したくなる。愛の妙薬を作るか作らないかで悩んでみたいし、休暇中にふくろう便で手紙のやり取りもしたいし、いつかはホグズミードでデートだってしたい。ハリー・ポッターの世界だからこそできる恋愛というものを楽しんでみたいけど、残念なことにここにいる生徒はみんな年下なのだ。もちろん、多少の年の差なら気にしない。例えば相手が7年生なら、デートをしていても違和感はないだろう。しかし一番接点のある同級生は7つも下である。どう考えても弟のようにしか見えない。

 改めて7歳差の大きさを実感したところで、ドラコが席を立つ姿が見えた。いつもならここでクラッブとゴイルもついて行くのだが、どうやら二人ともかなりお腹を空かせていたらしく、大量のデザートを頬張るのに夢中でドラコが立ち上がったことにすら気付いていない。代わりに隣にはパーキンソンが立ち、何やら楽しそうにおしゃべりをしながら二人は大広間を出て行こうとしていた。

「すっかり彼女気取りだな、パーキンソンのやつ」

 二人の姿が見えなくなったあと、明らかにトゲのある口調で誰かが笑った。

「元々マルフォイにベッタリだったけど、最近はあからさまだよなぁ」

 もう一人の誰かがあざ笑う。会話が聞こえてくる方向を確認してみると、見覚えのある顔が二つ並んでいた。あれは確か――そうだ。ドラコの新しい取り巻きだ。

「シーカーに就任した途端あの態度……やっぱ女って怖ぇー」
「バーカ。俺らもやってること変わんねぇだろ」
「いや、俺はあそこまで必死じゃねぇし」
「俺からすりゃ同じだって」

 やり取りを聞いて驚いた。と同時に、自分達と同列に語りパーキンソンの行動を揶揄する二人に腹が立った。談話室で過ごしていれば、シーカーとか箒とかそんなの関係なく、彼女がドラコにべったりなのは分かることなのに。都合良く解釈してパーキンソンを笑うなんて、どうしてそんなことが出来るんだろう。フォークを握り締める手が強くなる。

 感情を取り去る訓練は、今夜もうまくできそうにない。



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