利用価値


 日曜日の朝。一晩経っても、私の気持ちはどんよりと曇ったままだった。パーキンソンは私を明らかに避けてるし、グリーングラスは汚いものを見るかのような態度を示している。エイブリーもフィンフィールドもその異変に気付いたのか、寝室の空気の悪さに辟易していた。

 朝食を取りに、大広間に向かう。昨日の試合に勝利したことでグリフィンドールは寮杯獲得のトップに踊り出たにもかかわらず、喜んでいる者は少なかった。何があったのかと、観察してみる。周りを気にして話す者、顔を青くしている者、目の周りが赤くなっている者と、グリフィンドール生は様々な反応を見せていた。その雰囲気は他の寮生にも伝染していて、今日の大広間は休日だと言うのになんだかとても暗い。

「今度はコリン・クリービーが襲われたらしい」
「ジニーのやつ、相当参ってるみたいだな……」

 その理由は、フレッドとジョージの会話で判明した。昨夜の出来事に気を取られていて失念していたけど、コリン・クリービーは、骨を生やすために医務室で一晩寝ているハリーのお見舞いに行く途中、襲われて石になってしまうのだ。二人の話によると、呪文学の授業でコリンと隣り合わせだったジニーは、ミセス・ノリスの事件からますます落ち込んでしまったと言う。食欲もないのか、朝食の席にも来ていないようだった。

「せっかくホグワーツに入学したって言うのに、これじゃあな」
「俺にいい考えがある。こいつでジニーを元気付けてやろうぜ」

 そう言うと、双子の一人がローブの中から小さな薬瓶を取り出した。瓶には紫色の液体が入っており、ぶくぶくと怪しげな泡を立てている。

「ユズハも一緒にやってみるか?」
「それ、何の薬なの?」
「最高にユニークになれる薬さ」

 どんな効果があるのかは不明だけど、二人の楽しげな顔を見ていれば分かる。絶対に、少なくとも私にとっては、良いことは起こらない。

「ううん、遠慮しておく」

 そう言って最後のひときれになったハムを飲み込むと、私は朝食の席をあとにした。

 さて、夕方6時の閉心術のレッスンまで、あと9時間。ここからどうやってこの休日を過ごそうか。いつもなら談話室や寝室で時間を潰しているけど、パーキンソン達と顔を合わせるかもしれないと思うと戻るのも気まずい。誰にも邪魔されず、一人でゆっくりいられる場所――少し考えてから、私は図書室に向かうことにした。

 動く階段を上手く乗り継ぎ、近道を利用して、最短で図書室に辿り着く。夏休みのホグワーツ探検は、こういう時に役立った。

「閉心術……閉心術……あった」

 防衛魔法の棚を漁ること、30分。ようやく目当てのものを見つけることができた私は、少し埃被ったその本を持って近くの椅子に座る。ページを開いて冒頭部分に目を通すと、そこには、この分野があまり世に知られていないということ、知っていても熱心に取り掛かる魔法使いは少ないこと、しかし会得すれば必ず身を守る術になることなどが書かれていた。発行年数は1971年。第一次魔法戦争が起きた翌年だ。

「珍しいものを読んでるんだね」

 少しでも習得するヒントがないか読みふけっていると、頭上から声を掛けられた。顔を上げる。視線の先には、ホグワーツ特急以来の見覚えのあるハンサムな顔があった。

「セドリック・ディゴリー……!」
「しーっ。大声を出すと、マダム・ピンスに追い出されるよ」

 セドリックの注意に、慌てて口を覆う。棚の影から恐る恐るマダム・ピンスを見てみたが、どうやら私の声は聞こえていなかったらしく、変わった様子はない。ホッと胸を撫で下ろすと、セドリックは小さく笑った。

「驚かせちゃってごめん。難しそうな顔をしてたから、何を読んでるのか少し気になって」

 そう話す彼の興味は、私が持っている本に向けられていた。

「それ、閉心術について書かれている本だよね」
「知ってるの?」
「うん。以前レイブンクローの友達が、面白いからって勧めてくれたんだ」

 マイナーな魔法にすら手を伸ばすなんて、流石、知識を重視するレイブンクロー生である。顔も知らないお友達に感心していると、セドリックが隣に座ってきた。私達のことを遠巻きでチラチラ見ている女の子達の目が、少しだけ鋭くなった気がする。

「体じゃなくて心を守る――そんなの考えたことなかったから、とても興味深かったよ」
「出来るようになりたいって思った?」
「せっかくならね。けど思った以上に難しくて、独学じゃ限界があったよ」
「そっか」

 数年後、代表選手に選ばれるほどの腕前を持つセドリックさえ難しいと言う閉心術。スネイプ先生のレッスンはとても厳しいけど、教えてくれる人がいるというのは、とても幸運な事なのかもしれない。

「ユズハはどうしてその本を?」
「あー……タイトルを見て気になったの。どんな魔法なのかなって」

「個人レッスンを受けてます」なんて言えるはずもなく、それっぽい嘘で誤魔化してみた。咄嗟に出た言葉だったけど、信じてくれたのか、セドリックは納得したような表情を浮かべる。

「どんな魔法も、知って学ぶのは良い事だよ。……特に今は、何が起きるか分からないから」

 上級生らしい、落ち着いた反応。けれどその声色にはどこか緊張感が含まれていた。もしかしたら彼は、コリン・クリービーの件を知っているのかもしれない。 寮も学年も異なる二人に接点はないけれど、悪い話っていうのはいつだって出回るのが早いのだ。

 その後、レポートを書くと言うセドリックとは別れて、私は図書室を出た。行く宛てなんてないからもう少し本を読んでいても良かったんだけど、あれ以上女の子達の視線に晒されたまま読書を続ける勇気はない。貸出手続きは無事済ませたし、この本は使われていない教室かどこかに入ってゆっくり読もう。そんな事を考えながら廊下の角を曲がった時だった。

「痛っ……!」

 何かにぶつかり、尻もちをつく。衝撃で、手に持っていた本も床に落としてしまった。一瞬で血の気が引く。もし傷付けでもしたら、マダム・ピンスに何を言われるか……焦った私は急いで本を拾い上げ、状態を隅々までチェックする。

「――良かったぁ」
「ぶつかった相手より本の心配かい、オリベ」
「あ、ドラコ……」

 借りた時と何ら変わりない本の状態に安堵したのも束の間。聞き慣れた声に恐る恐る顔を上げると、冷ややかな目でこちらを見下ろすドラコと目が合った。

「ご、ごめんなさい。怪我とかしてない?」
「君にぶつかったくらいで何かあるわけないだろう」

 それじゃさっきのイヤミは何だったんだ、という言葉はぐっと呑み込む。しっかり前を向いていなかった私が悪いし、謝罪もせずに本の心配をしたのは事実だ。非は私にある。

「閉心術の有効性? それが、ミセス・ノリスやグリフィンドールの1年生を襲った『何か』からの対処法か?」
「ううん。これはただの趣味」

 本のタイトルを読み上げるドラコの問いに答えながら、私はゆっくり立ち上がる。お尻がちょっと痛いけど、歩けないほどではないだろう。

「それよりいいの? 一人で出歩いたりなんかして」
「襲われるのは君のような奴らだ。純血の僕には関係ない」

 珍しくクラッブとゴイルを引き連れていないドラコにたずねると、彼は薄い唇の端を上げ、自信満々に言い切った。秘密の部屋から解放された『恐怖』が何かも分からないのにこんな風に言えるなんて、ドラコにとっての純血は、間違いが起きない絶対の保護フィルターらしい。

「君の方こそ気を付けるんだな。いくら未来を知っていると言っても、サラザール・スリザリンが残したものに適うわけがないんだ」

 その通りだった。ミセス・ノリス達を襲ったのはバジリスクという怪物で、目を直接見なければ石になる程度で大丈夫――なんていうことを知っていても、私自身にバジリスクを倒す力はない。せめて死なないように鏡を常備して、角を曲がるたびに用心深く覗き込むのが精一杯だ。

「まったく……予知するだけで行動を起こせないんじゃ、何の意味もない。宝の持ち腐れだ。無能をアピールするくらいなら、黙っておいた方が利口だったと僕は思うね」
「うっ……」

 忘れかけていた昨夜の出来事を思い出し、胸が痛くなる。ドラコはただ皮肉のつもりで言ったんだろうけど、今の私には突き刺さる言葉だ。

「……それについては反省してるの。私利私欲で公言しちゃったけど、何も出来ない、何もしないなら、黙っておけば良かったって」

 パーキンソンの泣き顔が頭に浮かぶ。私はハリー・ポッターに夢中になり過ぎて、他の人の気持ちを蔑ろにしていた。誰かが傷付くことすら考慮しなかった。今いるここは、物語の世界ではないのに。何十人、何百人、何千人が生きている、現実世界なのに。

「無神経だった、私。自分のことしか考えてなかった」

 言いながら、自然と視線が足元に落ちる。

「未来が分かるなら教えて欲しいって、そんなの思って当たり前なのにね。思わせぶりな事だけしといてあとは知らんぷりって、腹を立てて当たり前なのよ」

 こんな一方的に、しかも年下の男の子に弱音を吐くなんてみっともないと思ったけど、一度さらけ出した感情を押し殺すことはできなかった。突然愚痴を聞かされて、ドラコは今どんな顔をしているだろうか。早くこの場を去りたいのか、それとも興味がないのか――どちらにしても、ドラコからすれば迷惑な状況だ。

「君が無神経で傲慢なのは、分かっていたことだろう」

 謝ろうと思った矢先、ドラコが見せた反応は予想もしていないものだった。何か言われるにしても、もっとキツい言葉を掛けられると思っていたのに。今さら何を言っているんだと、彼は呆れている。

「去年マクゴナガルに見つかったあの夜、君は自分が何を言ったか覚えているか?」
「え? えっと……」

 ドラコが言っているのはきっと、真夜中に寮を抜け出して天文台の塔に行ったあの日のことだ。チョコレートに惹かれて着いて行ったこと、長い階段に息が切れたことは覚えているけど……流石に何を喋ったかまでは記憶にない。

「『私は私の知ってる未来の通りに生きたい。大きく変化させようなんて思ってない』」
「……あっ」
「思い出したか?」
「うん。微かにだけど、言った気がする」

 確かその時も、宝の持ち腐れだって言われたっけ。

「ハリー・ポッターの未来を知ってるオリベがその気になれば、少なくともポッターに迫る危険は回避できる。闇の帝王の手下だったクィレルの魔の手も、事前に防げたはすだ。でも君はそれをしなかった。未来を変化させたくないからだろう?」

 図星だ。ハリーが死ぬわけじゃないからと、私はクィレル先生のことを誰にも伝えなかった。結果、ハリーはクィディッチの試合にも出れず医務室で眠り続けることになったけど、それこそが私の求めていた未来だ。

「大きく変化させたくないという理由で周りが傷付くのをスルーしている。危険は知らせず、対処もしない。例え助かることが分かっていたとしても、自分の都合で友達とやらが傷付くのを見過ごすなんて、傲慢以外の何なんだ?」
「……いつからそう思っていたの?」
「罰則で禁じられた森に行かされた時から。君が誠実で優しい子だったなら、そんな所には行かせない」

 驚いた。そんなに早くからそう思っていたなんて、まったく気が付かなかった。だって、あの出来事で裏切り者だと言われることはあっても、ドラコの態度は変わらなかったから。変わらず、私と接してくれたから。

「クィディッチの試合のこととか、教えてくれればいいのにって思ったりしない?」
「君がマクゴナガルに見つかるのを黙っていた時から、そんなもの諦めている」
「腹が立たない?」
「立つさ。けど、君の利用価値はそこじゃない。クィディッチの結果報告なんて、規模が小さ過ぎる」

 ドラコが薄ら笑う。利用価値だなんて、褒められているわけじゃないのは分かっていた。それでも、傲慢さや無神経さを全て呑み込んでくれるようなその言葉が嬉しくて、あれだけどんよりしていた気持ちが、徐々に軽くなっていくのを感じた。

「大事なのは『ポッターに関する未来を知っている』ということだ。父上はそれを期待して、僕と君の友好的な関係を望んでる」
「私、マグル生まれだけど?」
「…………父上はそれを知らない」

 尊敬する父親に隠し事をしているのが後ろめたいのだろう。気まずそうに答えるドラコがおかしくて、思わず笑みがこぼれる。

「それに、例え君がクィディッチの試合結果を教えてくれたところで、フリント達にどうにか出来るとは思えない。見たか? あの無様な飛びっぷり」

 その居心地の悪さを吹き飛ばすかのように、ドラコはチームメイトの悪口を言い始めた。頭上のスニッチに気が付かなかった自分のことは棚に上げているようだけど、それについて突っ込むつもりはない。私の心を軽くしてくれたのはドラコだ。だったら私も、ドラコの気分が晴れるまでこの話を聞こう。

 君の利用価値はそこじゃない――大事なのは『ポッターに関する未来を知っている』ということだ――これらは私を励ますための言葉ではない。ドラコは、ルシウスさんの期待に応えようという気持ちで言っただけだ。しかしそんな忖度のない言葉だからこそ胸にストンと落ちて、私を鼓舞してくれた。そうだ。私の目的は、クィディッチの勝敗を変えることでも石化を防ぐことでもない。死んでいく人達を助けることである。誰に何を言われてもいい。もう迷わない。「未来を知っている」と言ったおかげでハリー達に興味を持ってもらえたんだから、過去の行いをうじうじ悩むのも今日でおしまいだ。

 無神経だろうが傲慢だろうが、みんなで生き残って最後に笑えばいい。そのための『未来予知』である。



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