新たな恐怖


 決闘クラブが開かれたのは、ロックハート先生の宣言通り、あれから一週間後のことだった。玄関ホールの掲示板に貼られたお知らせに生徒達はみんな興奮していて、誰が教えてくれるのか、どんな呪文を見せてくれるのか、それは果たして怪物には有効的なのかなど、あちこちで盛り上がっている。

 開催時間は夜8時。会場となる大広間は、いつもと違った光景を見せていた。食事をするための長いテーブルは取り払われ、集まった生徒が立てるスペースが作られている。壁に沿って設置された舞台は、宙に浮かぶ何千という蝋燭に照らし出され金色に輝いていた。これから起こることを考えなければ、情緒溢れる素敵なステージだとさえ思う。隣にいるドラコには不評のようだが。

「この飾り付けをした人間は、頭がロックハートなのか?」

 皮肉たっぷりのその声は、一部の生徒の歓声と拍手の音にかき消されてしまった。どうやら、ロックハート先生が舞台の上に登場したらしい。姿は見えないが、先生のよく通る声が耳に届く。

「皆さん、私がよく見えますか? 私の声が聞こえますか? 結構、結構!」

 周りの生徒が、うんざりした表情で数歩後ろに下がった。そのほとんどが上級生なところを見ると、私達より強力な呪文を学んでいる彼らは、ロックハート先生が講師に向いていないということを分かっているのかもしれない。さっきから「来るんじゃなかった」だとか「あいつから何を教わるんだよ」だとか、不満そうな言葉が聞こえてくる。自業自得とは言え、あまりの言われようにロックハート先生が少し可哀想になってきた。

 そんな生徒達の姿は見えていないのか、ロックハート先生は満面の笑みを振りまきながら、眉間に深い皺を刻み込んでいるスネイプ先生を助手として紹介した。「手伝ってくださるというご了承をいただいた」なんて言っているけど、あの時のやり取りを思い出す限り、スネイプ先生は引き受けるなんて一言も言ってなかったはず。今だってロックハート先生の一挙手一投足に苛立っている様子だし、無理やり押し付けられたという雰囲気がひしひしと伝わってくる。さっきまでロックハート先生に歓声を送っていた生徒達も、スネイプ先生のその圧に押されたのか、すっかり黙り込んでしまっていた。

 張り詰めた空気のなか、舞台上の二人は向き合い一礼する。杖を前に突き出しながら、ロックハート先生は決闘の作法を私達に教えていった。

「三つ数えて、最初の術をかけます。もちろん、どちらも相手を殺すつもりはありません――1、2、3……」
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」

 眩しい紅の閃光が、ロックハート先生に直撃する。呪文を受けた先生は勢いよく吹っ飛び、壁に激突してしまった。鈍い音がしたけど、頭や骨は大丈夫なのだろうか。

「さあ、みんなわかったでしょうね!」

 ほとんどの生徒が不安げに見守るなか、ロックハート先生はよろめきながらも壇上に戻ると、普段通りの振る舞いを見せた。あの衝撃は相当痛かっただろうに、強がりもあそこまでいけば尊敬する。と言っても、これ以上スネイプ先生とやり合うつもりはないのか、模範演技はここで終了した。

 お手本が終われば今度は私達が杖を振る番だ。スネイプ先生とロックハート先生の指示により、生徒は二人一組のペアを組まされた。ほぼ強制的に決められたため余りものにならなかったのはいいけれど――

「あー……よろしくね、パーキンソン」
「……ふん」

 まさか彼女と組むことになるとは……これならまったく知らない人と組んだ方が良かったかもしれない。他にもハリーとドラコを組ませたり、ハーマイオニーとブルストロードを組ませたりと、スネイプ先生の采配には明らかな悪意がこもっていた。どのペアも、作法を守る間柄には見えない。事実、決闘が始まると状況はたちまち混乱を極めた。合図を待たずして呪文を放つ者、「武器を取り上げるだけ」というロックハート先生の言葉を無視して攻撃的な呪文を仕掛ける者など、大多数が好き勝手やっている。

 私とペアを組むことになったパーキンソンもそのうちの一人だった。ロックハート先生が「2」と数え終わらないうちに繰り出された縛り術の呪文は、しっかり身構えていなかったら直撃していたかもしれない。

「作法に従って杖を構えるって言うロックハート先生の言葉は覚えてないの?」
「それは私達魔法使いの場合よ。穢れた血には関係ないでしょ?」

 友人やドラコの影響なのだろうか。以前ハリエット・エイブリーが『穢れた血』と口にした時は驚いた様子を見せていたのに、今の彼女は遠慮することなくその言葉を告げた。ルームメイトのあまり嬉しくない変化に、ちょっとだけ悲しくなる。どうせ影響を受けるならもっといい方向に……と思うけど、口にしたところで余計なお世話だと一蹴されそうだ。

「エンゴージオ! 肥大せよ!」
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」

 パーキンソンの声に重ねて、見よう見まねの武装解除を試してみた。閃光は見事に彼女の手元に当たったけど、正しい杖の振り方ではないその呪文は本来の力を発揮することなく、杖を左右に揺らすだけだ。当然だが、スネイプ先生のように相手を吹き飛ばすなんて夢のまた夢である。

 それからもあちこちで生徒達の交戦は続いたが、最終的にはスネイプ先生の呪文を終わらせる魔法で大広間は静寂を取り戻した。体力を消耗した子達は、床に倒れてゼェゼェと息を切らしている。鼻血を出している生徒を介抱しながら、ロックハート先生はやれやれと肩を竦めた。目の前に広がる悲惨な光景に、これでは決闘クラブの意味をなさないことを流石に理解したらしい。今度はモデルとなる生徒を募るものの、誰も手を挙げようとはしなかった。

「ロングボトムとフィンチ‐フレッチリー、どうですか?」
「ロックハート先生、それはまずい。ロングボトムは、簡単極まりない呪文でさえ惨事を引き起こす。フィンチ‐フレッチリーの残骸を、マッチ箱に入れて医務室に運び込むのが落ちでしょうな」

 スリザリン生の何人かがくすくすと笑う。代替案として、スネイプ先生はドラコとハリーを指名した。二人の仲が険悪なことを知っている人間ならモデルに向かないことも分かりそうだけど、乗り気になって手招きしているところを見る限り、ロックハート先生にとって大事なのはハリー・ポッターが指名されたという事実だけで、お手本になるかどうかは重要ではないようだ。「頑張って!」というパーキンソンの声援を背中で受けながら、ドラコが大広間の真ん中に立つ。少し不安げなハリーとは違い、その顔は自信に満ちていた。

「1、2、3――それ!」
「サーペンソーティア! 蛇出よ!」

 合図の終わりと同時に動いたのはドラコだった。大声で呪文を唱えた瞬間、杖先から長くて黒い蛇がニョロニョロと出てくる。大きさはそこまでじゃないけれど、あからさまな攻撃態勢を取る蛇に、生徒達は悲鳴を上げながら後ずさりした。その波にのみ込まれた私は、そのまま壁際に追いやられてしまう。おかげでドラコ達の姿は見えなくなり、爪先立ちをしても、かろうじて確認できるのはロックハート先生とスネイプ先生の頭くらいだった。仕方ない。見るのは諦めて、耳からの情報を頼りにしよう。そう思って踵を地面に付けた矢先、バーンという音と共に、蛇が宙を舞う光景が目に入った。あれはロックハート先生の仕業だろう。攻撃されたと思って相当怒っているのか、蛇のシューシューと威嚇する音も聞こえてきた。

「ねえ、流石にやばいんじゃない?」
「スネイプ先生がいるなら大丈夫でしょ。性格はどうあれ、腕は確かなんだし」

 隣にいる上級生が呟く。しかし、その後耳に届いたのは呪文を放つ言葉でもなく、蛇が消えたという朗報でもなく、一人の男の子の恐怖と怯えが混じった声だった。

「いったい、何を悪ふざけしてるんだ?」

 少年が、人混みをかき分けて大広間から出て行く。後ろの方にいて状況を把握できなかった者は、突然の事態に困惑していた。続いて、大広間の扉に向かうハリーやロンやハーマイオニーの姿も見えたが、ちらりと確認できたハリーの表情は何が何だか分からないと言っているようだった。

「――ハリー・ポッターは、蛇と喋れるんだ」

 三人が出て行き静まり返った大広間で、誰かがポツリと言う。空気が張り詰め、ひんやりとした冷気が背中を流れた。前方で一連の流れを見ていた生徒から、話がどんどん伝染してくる。ヒソヒソと流れてくる声には、「ハリーが蛇をけしかけた」だの「サラザール・スリザリンと同じ蛇舌だ」だの、あまり良くない単語も混ざっていた。

 ハリーがパーセルマウスだということは瞬く間に広がり、今ではここにいる生徒のほとんどがハリーを疑っている。

「……継承者はポッターってこと?」

 そのうち誤解は解けるとは言え、こんなに大勢の人間から非難されるなんて――これからのハリーの立場を考えると、胃がキリキリした。


 ***


 翌朝になると、外は大吹雪で強烈な風が窓ガラスをガタガタ震わせていた。パーキンソンの話によると、この悪天候のせいで薬草学の授業は休講になったらしい。スプラウト先生がマンドレイクに靴下をはかせ、マフラーを巻く作業に徹する必要があるからだ。今やマンドレイクは石化した人達を元に戻すための重要な役割を担っているし、それらの保護が優先されるのは仕方のないことだった。授業を受ける予定だったグリフィンドール生とハッフルパフ生は自習――と言う名の自由時間――の時間を過ごせるみたいだけど、継承者の件で暗雲漂うこのホグワーツを好き勝手歩く生徒はいない。ここに来る途中、図書室や天文台の塔などに向かうハッフルパフ生を見たものの、どのグループも体を密着させ互いを庇うように歩いていた。ハリーの件で、彼らの心にはより強い恐怖心が植えられたのだ。

「ポッターがスリザリンの継承者だなんて、誰が言い出したんだ?」

 昨夜の決闘クラブでの出来事によって今では大半の生徒がハリーを恐れているなか、ドラコの様子は周りと違った。数少ないスリザリンの継承者万歳派の彼は、大嫌いなハリー・ポッターが『選ばれし者』だとは思いたくないのだ。ハリーの話題を聞くたびに、ドラコの機嫌は悪くなっていく。

「ドラコなら、本当の継承者が誰だか知っているんだろう?」
「知っていたらこんなところでボーッとしているわけがないだろう」

 クラッブの問い掛けに、ドラコはイライラした口調で答えた。授業中だと言うのにボーッとしているなんて……今ここが魔法史の教室でなければ、ビンズ先生が生徒に無関心なゴーストでなければ、スリザリンは減点をくらっていたかもしれない。

「そもそも、僕が継承者なら石化なんて生易しいことはしない。魔法界を汚す『穢れた血』は、さっさと粛清されるべきだ」

 穏やかではない物言いに、どこからか女子生徒の小さな悲鳴が聞こえてきた。ドラコは気にしていない様子だけど、教室の雰囲気は明らかに暗くなっている。いつ襲われるかも分からない状況で不安を煽るような言葉を聞けば、こうなるのも無理はないだろう。いくら両親共に魔法使いの生徒が多いスリザリンでも、根っからの純血主義なんてそういないのだ。なかにはマグル生まれを友人に持つ子だっているし、遡れば家系図にマグルの名前が載っている子もいる。純血主義者の振る舞いが目立つため誤解されることもあるが、他の寮生同様、大多数は『スリザリンの継承者』を恐れていた。そんな子達にとって、今のドラコはあまり良く思われていないはずだ。

「そういう事を話す時は、もう少し声のトーンを落とした方がいいと思うよ」

 見兼ねて、すぐ後ろに座っているドラコに声を掛ける。最初は驚いたような顔をしていたドラコだが、両隣にいるクラッブとゴイルに目配せすると、ニヤニヤと笑い始めた。同じように、クラッブ達も私を見て笑っている。

「怖いのか?」

 ここで『怖い』と答えたら、ますます笑うんだろうなぁ。人が不安になっている姿を格好悪いとからかう人間は、どこの国にも一定数いるものだ。

「君みたいなマグル生まれは大変だな。心配事ばかり増えて……そうだ、襲われる前に荷物を纏めてホグワーツを出て行ったらどうだ?」
「帰る家がない状態でホグワーツを出て行くなんて、そっちの方が死亡フラグだよ」
「は? ……死亡、フラグ?」

 聞き慣れない単語だったのか、ドラコは困惑したように私の言葉を復唱する。その後説明を求めるかのようにクラッブとゴイルに視線を送ったが、二人も意味を理解しておらず、首を横に振るだけだった。

「その行動を取ったせいで死ぬのが確実になっちゃうこと。この戦いが終わったら結婚するんだとか、殺人鬼がいる場所にいられるか、俺は部屋に戻る、みたいなやつ。知らない?」

 大体はこの説明で納得してもらえるんだけど、ドラコにはピンと来ないらしい。訳が分からないという顔をされた。やっぱり、魔法界と非魔法界の文化には大きな違いがあるようだ。

「えーっと……まあ、とりあえず死亡フラグの話は置いといて――怯えてる子がいるのに怖がらせるような話をするのは賢明じゃないって言いたいの。敵を増やす可能性だってあるのに……」
「穢れた血連中がどう思おうが、僕には関係ない」
「怯えてるのはその子達だけじゃないって、ドラコも分かってるでしょ?」

 ドラコの片眉がピクリと動く。そして先ほど悲鳴がもれた方向を一瞥すると、面倒臭そうに小さなため息をついた。

「スリザリンの継承者は、魔法界を正しい方向に導いているんだ。純血であるなら誇るべきなのにそれを恐れるということは、ウィーズリー家のようにマグル贔屓なんだろう。そんなヤツらのことまで構う必要はない」
「周りが敵だらけになっても?」
「ああ」

 こうやって得意げに答えるのは、そんな時が来るはずないと思っているからなのかもしれない。聖28一族に名前を連ねるマルフォイ家がイギリス魔法界において大きな力を持っていることを、ドラコは十分に知っているのだ。恩恵を受けようと顔色を窺う者はいても、損をしてまで彼らの敵に回ろうとする者は少ない。ホグワーツという小さな子ども社会の中ですらそうなのだから、ルシウスさんが日頃どんな接待を受けているかは想像がつく。

「……魔法界を正しい方向に導こうとする魔法使いが現れた時、ドラコの周りにはどれくらいの味方がいるんだろうね」

 ヴォルデモートが復活した時のことを思い浮かべながら、私は小さく呟いた。一瞬だけ、クラッブに視線をやる。今は無邪気に隠し持っていたお菓子の包装紙を開けている彼だけど、マルフォイ家の権威がなくなった時、秘めていた凶暴性を見せるのもこのクラッブだ。結果、命を落とすことにもなる。それは絶対に阻止したい出来事だけど、ドラコが今の振る舞いを続ける限り、クラッブはあそこでドラコに反抗するに違いない。力で友情は結べないのだ。

「僕の味方の心配をしてる暇があるなら、自分の身を――」
「襲われた、襲われた! 生きていようが死んでいようが、ヤツにはなーんも関係ない! 襲われたくなけりゃ、襲われる前に逃げるんだな!」

 甲高い声が響き渡る。ポルターガイスト、ピーブズの声だ。ビンズ先生の授業に飽き飽きしていた生徒は、一体何が起きたんだと駆け足で教室を出て行った。

「オー、ポッター いやなやつだー いったいおまえは何をしたー おまえは生徒を皆殺し おまえはそれが大愉快」

 歌にのせられて聞こえてくる言葉に、女子生徒がわっと泣き出す。「皆殺し」という単語に不安が爆発したのかもしれない。彼女を宥めている女の子の顔も、血の気が引いたように青ざめていた。こういう時、熱心な先生なら生徒を落ち着かせようとしたかもしれない。マクゴナガル先生なら厳格に、スネイプ先生なら冷ややかに、フリットウィック先生なら冷静に、スプラウト先生なら朗らかに――けれど今ここで教鞭を執っているのはビンズ先生だ。私達が泣こうが喚こうが、生徒に関心を持たない先生の調子が崩れることはない。不安はそのまま広がっていき、みんな近くにいる者と肩を寄せ合っていた。

 騒ぎがおさまらないまま数分後、様子を見に行っていた男の子達が教室に戻ってくる。残っていた生徒の視線を一斉に受けながら、彼らは何が起こったのかを説明していった。襲われたのはハッフルパフ生のジャスティン・フィンチ‐フレッチリーとほとんど首無しニックであること、その場にハリーが居合わせていたこと、マクゴナガル先生の指示で教室に戻ってきたことなど内容はざっくりしたものだったけど、ここにいる子ども達の恐怖を増長させるには十分な話だった。

「ゴーストまで石にしちゃうなんて……そんなの、気を付けようがないじゃない」

 涙ながらのその声は、重苦しい空気の中に沈んでいった。



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